上海ユダヤ難民記念館

今回の旅の最大の目当ては、虹口地区にある上海ユダヤ難民記念館でした。

JCマンダリンからタクシーで20分ほど。16:30までに入館しないといけなかったのですが、何とか間に合ってよかったー。

受付のおじさん(英語ペラペラ!)、掃除のおばさまなど皆様親切。中国人は無愛想な人が多いと言いますが、上海の人は開けている分?フレンドリーな方も多い印象です。
学割がきくのかなぁ?と思ったら、きかなかった・・・。(他の人のサイトを見たら、学生だったので10元でした。と言う人もいた。入館料は50元です。)

孫文故居も中に入る時は、シャワーキャップのような靴カバーをつけました。実際使われ入る教会とその2・3階は、これをつけて入ります。


2階はミーティングルームっぽくなっていて、モニターなどが置かれていました。
下は今でも使用されている(?)シナゴーグです。3階は絵画などのアート作品が展示されていました。

シナゴーグを出ると中庭があり、2つの展示室があります。周囲は旧ユダヤ難民の収容所があります。


ユダヤ教のキャンドル。この部屋では、ユダヤ難民が上海に逃れる経緯について、英語のみですが映像を観る事ができます。


奥に入ると、空間を大いに使った展示形式でした。床も天井にも写真が所狭しと展示されています。
杉原千畝さんの写真もあります。彼がカナウス領事館で発行したビザによって多くのユダヤ難民が生き延びることができましたが、神戸に行ったユダヤ難民達は、運がいい者はアメリカなどの希望の地へ、行き先がない者達は上海に渡りました。
ナチスの迫害によって難民となったユダヤ人は、当時世界で唯一だった無査証都市・上海に逃れます。奇しくもそこは中国でありながら、日本が支配する地域だったのです。
私は卒論のテーマにするまで、お恥ずかしながらその事実を知りませんでした。日本人はユダヤ人と共存した経験があまりないため、接点がありませんでしたが、戦間期に中国を支配下に置く日本と、ナチスから逃れて来たユダヤ人の接点が生じたのです。(ハルビンと上海にて。)
上海にいた「ユダヤ人」には、大別して3つのユダヤ人グループがありました。イラクなどを出自とするセファルディ系ユダヤ人。サッスーン財閥、カドゥーリ財閥などです。和平飯店、ペニンシュラホテルのオーナーですね。
ロシアから逃れて来たロシア系ユダヤ人、そしてヨーロッパから逃れて来た中央ヨーロッパ系ユダヤ人です。
犬塚惟重海軍大佐と言う人物が、ユダヤ人工作を行うために上海に犬塚機関を設置しました。
私の卒論テーマはその辺りです。
床にはナチスドイツと日本軍の写真が配置されていました。この展示方式を見れば、当時の日本はドイツと三国軍事同盟を組んでいたこともあり、ユダヤ人排斥を行ったドイツと同等であると見なされても仕方がないのかもしれません。
参考文献
参考文献(※一部参考にさせて頂いています。)
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>―「避難」と「監視」の狭間で』(2005年、昭和堂)
中日新聞社会部[編]『自由への逃走―杉原ビザとユダヤ人』(1995年、東京新聞出版局)